私は「脱原発」を主張します。このコーナーの中で繰り返し書いていますが、「原発が必要だ」という主張からは、市民生活にとって安心となる要素が何ひとつ出てこないということに最大の不安と憤りを感じます。
「電力がないと困る」…これは本当にその通りだと思います。水や空気と同じくらい私たちの生活には欠かせないものになっていますから、
「経済にとって問題だ」と言われる以前の問題として、みんな深刻に受け止めたと思います。だから、あんなに節電に協力できたのではないでしょうか。
水も市民生活には欠かせないものです。夏の猛暑でダムの貯水量が減って、節水を呼びかけられたり、場合によっては計画断水に踏み切ったり…、何かと似てますね(計画停電)。
だけどダムを増やさなきゃいけないとか、経済をどうするんだって、脅されたり、不安にさせられたりすることはありません。ガスもそうです。
それどころか、水やガスを供給する側は、何とかして絶やすことがないように努力されていると思います。水道水は昔、安全のための消毒剤(カルキ)の匂いが残っていましたけど、
今では天然水と間違うほど、おいしい水で供給されるようになりました。ガスにも、安全のための装置が取り付けられたりするようになりました。
安全だけでなく、快適さもプラスされてきたと思います。それこそ公共の意義だと思います。
それが電力に関しては、まったくその逆であるように思います。なくてはならないものだからこそ、あって当たり前のように振舞って頂かないと意味がないと思います。
人工呼吸器や酸素吸入器なしでは生きられない人たちにとって電気はまさに命綱、「経済にとって問題」以前の命に関わるそれこそ大問題です。
それは経済だって同じだと思います。経済は国家生命と言えるかもしれません。そういう意味では、経済も市民生活も同列にあるのだと思います。
ひとたび事故を起こしてしまうと、空気や水、食べ物を安心して摂取できなくなるばかりか、生命に危険を直接及ぼすことだってある原発を
「もう要らない」って言うのに押し付けられていいはずがありません。それなのになぜ電力だけがそんなに威張っているのか。私には理解できません。
脱原発派が感情的になっているとすれば、恐らくこの部分を原発推進派が容認しているからだと思います。
2011年11月15日 赤沢富士男
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